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気候変動下の農業における病害虫リスク変動:予測モデルと総合的病害虫管理(IPM)の進化

Tags: 病害虫管理, 気候変動, 予測モデル, 総合的病害虫管理, 農業レジリエンス

はじめに:気候変動が農業病害虫にもたらす影響

地球温暖化に代表される気候変動は、農業生産システム全体に多岐にわたる影響を及ぼしています。特に、気温上昇や降水パターンの変化は、作物の生理的反応だけでなく、病害虫の生態、分布、発生頻度にも顕著な変動をもたらし、農業現場における新たな脅威となっています。これまで知られていなかった病害虫の侵入リスクの増加、既存病害虫の多発化、そして薬剤耐性化の加速は、世界の食料安全保障に対し甚大な懸念を引き起こしています。本稿では、気候変動下で変動する病害虫リスクを巡る最新の研究動向と、それに対応するための予測モデルの進化、そして総合的病害虫管理(IPM)の再構築と適応戦略について解説します。

気候変動下の病害虫リスク変動メカニズム

気候変動は、病害虫の生活環のあらゆる段階に影響を及ぼし、そのリスクを複雑化させています。

生活環と繁殖速度の変化

気温上昇は、多くの昆虫類や病原菌の代謝速度を加速させ、世代期間の短縮や繁殖速度の増加を引き起こします。これにより、年間世代数が増加し、短期間での個体群密度の急増や、被害期間の長期化につながることが指摘されています。例えば、国際的な研究機関の報告によると、ある種の害虫は平均気温が1℃上昇するごとに年間世代数が0.5世代増加する可能性が示唆されています。

地理的分布の拡大

温暖化は、これまで寒冷な地域では越冬できなかった病害虫の生息域を北上させたり、高標高地域への進出を可能にしたりしています。これにより、新たな地域での被害発生や、これまで共存していなかった病害虫と在来種の相互作用による新たな生態系撹乱のリスクが高まっています。

宿主植物への影響

気候変動による高温や乾燥ストレスは、作物の生育を阻害し、生理的状態を変化させます。ストレスを受けた植物は、二次代謝産物の生成パターンが変化したり、防御反応が低下したりすることがあり、これが病害虫に対する感受性を高める要因となり得ます。

薬剤感受性の変化

環境要因の変化は、病害虫の薬剤感受性にも影響を与える可能性があります。例えば、特定の条件下では農薬の分解速度が変化したり、病害虫が薬剤抵抗性を発達させるメカニズムが促進されたりすることも懸念されています。

予測モデルの進化と早期警戒システムの構築

気候変動下の病害虫リスクを効果的に管理するためには、高精度な予測と早期警戒が不可欠です。近年、データサイエンスと情報通信技術の進展により、予測モデルは大きく進化しています。

気象データと生物学的データの統合

リモートセンシング技術(衛星画像、ドローン)やIoTセンサー(温湿度センサー、風向風速計など)は、圃場レベルでのリアルタイムな気象データや作物の生育状況、病害虫の初期発生兆候を収集することを可能にしました。これらのデータと、過去の病害虫発生履歴、生物学的知見(発育零点、有効積算温度など)を統合することで、より精緻な発生予測が可能になっています。

機械学習・深層学習の活用

大規模な時空間データセットを解析するために、機械学習や深層学習が活用されています。これらのAI技術は、病害虫の発生パターンや分布を学習し、複雑な非線形関係を抽出し、人間には気づきにくい相関関係を発見することで、予測モデルの精度を飛躍的に向上させています。ある研究グループは、深層学習モデルが従来の統計モデルと比較して、特定の病害の発生予測において20%以上の精度向上を達成したと報告しています。

ゲノム情報解析の応用

ゲノム情報解析技術の進展は、病原菌や害虫の薬剤抵抗性遺伝子や病原性関連遺伝子の早期検出に貢献しています。DNAシーケンス解析により、地域における薬剤抵抗性の拡大リスクを早期に評価し、適応的な防除戦略を立案することが可能になりつつあります。

GIS(地理情報システム)の統合

地理情報システム(GIS)は、収集された様々なデータを地理空間情報として可視化・解析する強力なツールです。これにより、病害虫のリスクマップが作成され、特定の地域や圃場におけるリスクの高低を直感的に把握し、地域ごとの最適な防除計画の立案に役立てられています。

総合的病害虫管理(IPM)の再構築と適応戦略

予測モデルの進化は、総合的病害虫管理(IPM)の戦略をより精密かつ適応的に再構築するための基盤を提供しています。気候変動を考慮したIPMは、従来の枠組みを越えた多様なアプローチを統合する必要があります。

生物的防除の強化

気候変動下では、生物多様性の維持と生態系サービスの活用がより重要になります。天敵昆虫や微生物農薬の利用は、化学農薬への依存度を低減し、持続可能な農業に貢献します。特定の病害虫に対する新たな天敵探索や、気候変動下でも効果を発揮する微生物製剤の開発が進められています。

栽培的防除の最適化

抵抗性品種の導入は、病害虫被害を軽減するための最も効果的な手段の一つです。また、輪作体系の見直し、適切な耕うん、収穫残渣の処理、植付時期の調整、施肥管理の最適化など、圃場環境を健全に保つための栽培管理も、病害虫発生抑制に寄与します。例えば、ある研究では、高温耐性かつ特定の病害に抵抗性を持つイネ品種の導入が、気候変動下の収量安定に大きく貢献することが示されています。

化学的防除のスマート化

化学農薬の使用は、必要な時に必要な量だけ、精密に行う「スマート化」が求められています。予測モデルに基づく精密なタイミングでの散布や、ドローンを用いた標的指向型散布は、農薬の使用量を削減し、環境負荷を低減しつつ、最大の防除効果を目指します。また、生態系への影響が少ない低リスク農薬の開発も進められています。

地域連携と情報共有

病害虫は国境を越えて移動するため、地域や国レベルでの情報共有と連携が不可欠です。病害虫発生情報、気象データ、防除効果に関する情報をリアルタイムで共有し、共同で広域的なIPM戦略を策定・実施することが、被害の拡大防止に繋がります。

国内外の事例と研究の最前線

欧州では、デジタル農業の推進とともに、病害虫の予測とIPMを統合したシステムが開発され、一部地域で実証されています。例えば、EUのHorizon 2020プロジェクトの一環では、衛星画像と圃場センサーデータを組み合わせたAIモデルが、ブドウのべと病や小麦のさび病の発生を高精度で予測し、農家が適切なタイミングで防除を行う支援を提供しています。これにより、農薬使用量の削減と収量の安定化が報告されています。

日本国内においても、スマート農業実証プロジェクトを通じて、水稲におけるいもち病やウンカの発生予測、キュウリにおけるうどんこ病やハダニの発生予測モデルの現場適用が進められています。国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)では、気候変動シナリオに基づく主要病害虫の将来分布予測や、新たな薬剤抵抗性メカニズムの解明など、多角的な研究が進められています。

今後の展望と課題

気候変動下の病害虫管理は、データサイエンス、AI、ゲノム編集技術など、多様な分野の知見を統合することで、飛躍的な進化を遂げつつあります。しかし、その普及と定着には、以下の課題への取り組みが不可欠です。

気候変動下の農業における病害虫リスクの克服は、科学技術の進展と現場適応、そして国際的な連携を通じて、持続可能な食料生産システムを構築するための重要な鍵となるでしょう。